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ただちに菅政権に影響を及ぼすレベルではないwww

不用意に書くべきものではないかもしれないが、手荒く手早く核心を削り出すのが当ブログの趣旨なのでもったいぶらずに言っちゃう。

今回の原子力災害をめぐって日本人の民族的欠陥が露になったのではないだろうか?

民族的欠陥とは大きく出たな。別に国民的欠陥でも、日本社会の市民的欠陥でもいいが。
で、これまた一気に本質に伐り込むと、その原因は「神の不在」にあるのではないかと。
どういうことか?

神、ないし絶対的超越的存在、そういうものと個人が直接対峙するという経験や在り方が大多数の日本人には欠けている。
恐ろしいのは神の目ではなく隣人の目、そう「空気」ですね。

危機管理というのは本来、最悪の事態に想いを廻らし備えるもの。状況が不明ならより悪い方を想定するのが筋。しかし日本人がやるのはたいてい逆。状況はいい方に問題は小さい方にと、楽観的に希望的観測で「想定」するのがデフォルト。果ては事実までねじ曲げる。
悪い方へ覚悟し実際はそうでもなかったら結果オーライだが、問題を小さく楽観的に見積もって手に負えなくなったら、ジ・エンド。
太平洋戦争がそうだった。そのうえ国民はコロッと掌返し。

なぜ最悪の事態を考えられないのか? なぜ最後まで希望的観測にしがみつくのか?
「甘え」だと思う。日本人は自然に、そこに住みたまう八百万の神々に、無意識的に甘え身を任せ安心してしまっている。そこにいるのは父たる唯一神ではなく、母たる地母神である。

現実の地母神は世間であり村社会である。
そこから弾き出されるのは恐ろしいこと。
なぜ日本人は突き詰めて考えることが不得手なのか?
なぜ日本人は大袈裟を嫌うのか?

重装備を笑って軽装備で死ぬなんてただのアホですやん。
確かに過剰装備は見苦しい。が、軽装で冬山行くバカもおるまい。

原子量災害を惹起したもの。そして放射線よりも恐ろしく半減期すら不明確なもの。
それは我々日本人の心のありようであり、それが投影した日本という国のありさまではないだろうか?
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想定外とゆーこと

<続き>

思えばこの度の大震災で誰の眼にも明白になった事柄がある。二つ挙げよう。
一つには、世の中何が起るか分からない、絶対や確実はない。当たり前だが。これだけやっておけば安心だとか、政府の基準を満たせば安全だとか、それはない。
二つ目は、にも関わらず、やはり備えあれば憂いなし。備えよ常に。もちろんパーフェクトに備えることはできない。しかし万が一を考えることは常に有効である。


想定外にも二種類あって、「まるっきり想定できなかった」と「想定できたけどしなかった」では全然話が違う。後者など不作為の犯罪ですらあるが、前者とて想定ならぬ想像はできた筈である。想像できることなら砂浜分の砂一粒くらいの確率であれ現実となる可能性はある。結局、「想像できたが現実のものとして想定できなかった=しなかった」わけである。合掌。

もちろん、「想定外とすることにした」のはそれなりの理由があって、一つはやはり確率が低いのと、その低い確率のことまで一々手当てしていたらいつまでたっても話が進まないからである。具体的には予算が無い・人がいない・時間がかかる等、総じてコストがかかる。従って、「想定外=これらはないものと想定する」、コレである。

これはしかし決して間違いではない。どこかで線引きをしなければならない以上、恣意的であれ想定の内と外を別ける必要がある。絶対は無い以上、妥協は必要ということだ。間違いなのは想定外を言い訳に使うこと。免罪を含意させることだ。想定はしなくても想像はできる。想像できる以上、想定外で思考停止させてはならない。

想定外というのは要するに、予想を超えた・事前の準備では対処できなかった、そういうことである。
しかしこれは仕方ない。なぜなら、完璧な準備など不可能だから。しかし心構えは、意識することは可能だ。つまり、想定外の事象は起こり得ると認識すること、想像すること、心の準備をしておくこと。これなら出来る。

言うまでもなく事前の準備は非常に大切である。ただ一見攻めの対策のようだが、想定しそれへの対処という点で常に後手に回っている。特に物理的・物質的準備の限界は低い。次に制度やシステム・組織の準備である。これは上手に運用すれば柔軟性もあり効果も高い。欠点はまさに、有用であるか否かは運用者と構成員の資質次第ということだろう。三つ目こそが核心であり運用の要である。つまり普段の心構えと非常時の覚悟だ。
一つ目の物質的な備えと二つ目の制度的な備えに命を吹き込むもの、それが三つ目の精神的な備えである。備えの三位一体。備えあれば憂いなしとは正にこのこと。

想定外の事象に対処する組織、これが暴力装置、特に軍隊の本質である。起らないように努力はするが、有り得ないには逃げない。何とかする、何とかしなければならない、それが軍隊の使命だ。国家の信義を担保するもの、それが軍隊である。

こうして見ると軍隊や軍備の廃絶がイコール平和ではないことが理解できる。戦争するのは人であって、道具の軍ではない。軍隊を無くしたところで戦争は無くならない。なぜなら、戦争とは他の手段をもってする政治の延長だからだ。軍という手段が無ければ、他の手段を用いてするだけである。
つまり問題はそのようなところに有る訳ではないということだ。丸腰になれば侵略されないなどと詭弁である。

想像できることは可能性がある。可能性があることは現実になりえることを否定できない。だからこそ事前の準備、普段の心構えが重要ということだ。災害も戦争もそのことは同じである。九条を守り、自衛隊を廃止すれば平和になるなんて、ただの思考停止である。原発が夢のエネルギーだなんて謬見だったように。科学が人類を幸福にするだなんて妄想だったように。共産主義が人類を解放するだなんてヘボ芝居のプロレスごっこだったように。

ハチェット

Hatchetとは小型の斧。

ハチェット-手斧

斧はその原初的原型的性格を機能に記憶する道具で、石の握斧の時代から原発事故に出動する消防隊に至るまで、常に人類と共にあった。
伐採用の斧はチェーンソーの普及に従い活躍の場は狭めたが、ここ一番での破壊力と耐久性は無類である。
斧の一撃でチェーンソーも壊れるしね。
PCなんかもイチコロよ。


アックス三兄弟

映画「フィラデルフィア・エクスペリメント」(←テレビで見た)では、今で言うステルスの実験のため軍艦に搭載したテスラ・コイルが暴走し所謂トンデモ現象が発生しちゃったので、主人公が決死の覚悟で軍艦に乗り込み、消防斧でその制御装置をブチ壊すのがクライマックスシーンであった。
斧強ぇえww科学ざまぁwwwってところでしょうか。あ、似非科学かな?

 参考:フィラデルフィア実験とは何だったのか

フィラデルフィア実験(レインボー・プロジェクト)が実際にあったのか否かは何とも言えないが、リンク先の論者も指摘しているように、仮に行われていたとして、しかしそれを当局が認めるわけがない。
なんたって極秘実験ですから。しかも国防上の。
それはそうで、政府にせよ大企業にせよ全てを馬鹿正直に明かしているわけではないのは当然で(あなた、家族や友達や配偶者に自分のコト全部話していますか?)、必要ならば資料の隠蔽改竄や場合によっては口封じだってやってのける。

話がそれた。
2枚目の写真、太いストレートな柄でエンドが黄色く塗られているのが薪割り斧。ヘッドは重く厚みもあって、その重さと振り下ろす遠心力で丸切りした幹をかち割るのが仕事。刃の反対側はハンマーとして使える。クサビを打ち込んだり。
柄がカーブを描き、刃が薄めで幅広いのが主として伐採や根切りに使う斧。もちろん薪割りにも。
この2本はドイツSTIHL社製。
一番小さいのがハチェット。ハックの道具。薪割ったりハツったりと見た目通りのナイフ以上アックス未満。ただ、日本で使うなら鉈の方が申し分なく優れていると思う。
要は手斧であるが、手斧(釿)と書いて「ちょうな」と読むとまたちょっと特殊化専門化した別種の大工道具になる。
「ちょうな」は「ておの」の訛りらしい。また「おの」は古語で「よき」と呼んだらしく、これは今でも大工さんとか使いますな。
ちなみにウチの親父なんかは「でぇく」に近い発音してましたわ。

最近は薪割り薪作りがちょっとしたブームのようで、薪ストーブ用とか言って北欧ブランドの斧で薪作ってニヤニヤ悦に入っている人とかいません?足元はラバーブーツ(決して黒のゴム長とかではない)で決めていたり。
これはエコライフやらアウトドアライフやらカントリーライフやらの影響というか擦り寄りだが、横文字であることがファッションであり唯の娯楽趣味の類であることを如実に示しておる。
確かにぶっとい木株をスパーンと割るのは爽快だし全身運動でもある。でもかなりの重労働ですよ?あくまでたまの気晴らしだから楽しいのであって、これが普段の日常生活、やらなきゃならない日々の家事労働だったらどうなんですか?

昔はそれしかなかったからそうするしかなかった。除草剤がなかった頃は雑草との闘いだった。今の都会の人間や田舎住まいの人もそれに耐えられますか?って話。自給自足っぽい生活に憧れてド田舎に引っ込んでも、電気とネットも引き込むんでしょ?やっぱり。田舎暮らしを満喫しつつ、しかしそれを吹聴したがり、パソコン使いながら原発反対ですか?

それが悪いと言うわけじゃない。人間そんなもの。矛盾を抱え原罪を背負って生きるしかない、それが人間の生。アフリカの飢えた幼子の死にも、福島の原発事故にも我々一人一人に責任がある。この世に生きている以上それはある。しかしそれは個人が負いきれるものではない。生きるということは畢竟人殺しだ。直接手を血で汚すか否かの違いでしかない。現代は社会がソフィステケートされているから、殺しはシステムが肩代わりしてくれる。しかしそのシステム内に生きその恩恵に浴しているならば、殺しの共犯者であり血がついてなくてもてめーの手が汚れている事実には変わりない。エコやカントリーが胡散臭く堕落臭が伴うのはその為だ。


鉄槌の哲学。ニーチェは言った、呵責なくハンマーを振るって哲学すること。斧で無駄なくきれいに薪割り作業するにもコツや経験、一言で言えば知恵がいる。知恵こそニーチェの鉄槌であり、借り物や流行ではない、己が思索の営為だ。エコやカントリーには欠如しているものだ。胡散臭く堕落臭が伴うのはその為だ。
斧を振るって薪を割り、鎌を手に草むしりしながら、そんな風に考える。
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